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http://cycle93oz-en.takeshitakama.com/2013/12/e1-prologue-1-project-of-finding-myself.html
オーストラリアの自転車一周記のプロローグとして、旅立つ前に話をまず書きたいと思う。今回は、「オーストラリアを自転車で一周する事を決めた経緯」についてだ。
1992年、僕は19歳で東京にいる。4畳半一間、風呂なし、電話無し、トイレ共同の木造モルタル・アパートメントである三楽荘の二階に住んでいる。出窓があり、そこを僕はロフトを呼んでいて、友人から「楽観的だな」と言われていた。
その頃は、良かったことも悪かったこともあったが、思ったように進めなかった時代だった。あまり、思い出したくないので、この頃の話はしないし、聞かないでください。映画やシアターに興味があって、そんな世界で仕事がしたいと考えていた頃だった。また、テントと寝袋をバイクに積んで、日本中を旅行していた時代でもある。
今は、「ゆるキャラ」の姿勢を取っているが、あの頃は「近藤マッチより熱い男」と言われていた。単なる若造の「自分探し」だ。今、自分より若い人が「自分探し」をしているのを見ると、「そんなことしなくても自分はここにあるのに」と思うが、自分も「自分探しプロジェクト」に夢中だった。若い時には、そんな時代も必要なのだろう。
「自分探し」のテーマは色々とあると思うが、僕は「自分の企画をどれだけ妥協せずに実現させるか」だった。世界平和のために活動でなく、純粋に自分の能力の限界に挑む自己満足野郎だった。日本を旅行していたのも、高校時代に「20歳までに日本を一周、25歳までにオーストラリアを一周、30歳までにアフリカを縦断する」と決めていたからだと思う。もちろん、野宿の旅は楽しかった。沖縄には行けなかったが、計画通り19歳で日本を一周した。
「次はどうしようかな~」と、通称ロフトの出窓に腰掛けて、よく考えていた。友人が良く泊まりに来ていた。佐野元春の約束の橋が好きだった。ある日、友人の一人がそのシングルCDを買ってきて、みんなでどんちゃん騒ぎをしている間に、そのCDを無限リピートで再生していた。いつの間にか、みんな寝てしまった。頭にはサビの「今~までの君は間違いじゃない! 君~のためなら、七色の橋を作り、河を渡ろう」が無限リピートされている。翌朝、友人は「飽きたから、このCDやるよ」と、当然のごとくCDを置いていった。
「今~までーの君は間違いじゃない」と口ずさんでいたと思う。まっとうな就職先もあったので、その前に、「次はインドに行こうかな」と思っていた。いろいろなきっかけになった出来事はあったと思うが、根底に「自分探しプロジェクト」があった。就職試験で小論文を書き、「80%ではダメ、100%出しきる」を書いたことを覚えている。おふくろは、「80%でいいじゃない」と言っていた。今思えば、あなたが正しい。しかし、当時の僕は、「妥協しない自分探しプロジェクト」を遂行中だったので、そうは行かない。
21年前の事なので曖昧だが、たぶん通称ロフトで、佐野元春のサビを口ずさんでいる時に、ふと高校時代にに決めた3つの目標を思い出した。
「20歳までに日本を一周、25歳までにオーストラリアを一周、30歳までにアフリカを縦断する」
「やっぱり、次はオーストラリアだろ」
次の目標がふと決まりまった。意思を変えないレベルで意思決定することを「ルビコン川を渡る」を言うが、僕的には佐野元春の「七色の橋を作って河をわたってしまった」のだと思う。意思が決まったら、行動は早かった。
「ホンダ・カブで行くか、いやせっかくだから自転車だろう。」
「右回りか、左回りか?」
「お金はどれぐらい必要なのだろう?」
「日本じゃないからパスポートって物が必要なのだろう。」
当時の手帳には、沢山の「やること」リストが書いてあったと思う。海外に行ったことがなかったので、パスポートをまず作った。オーストラリアに行くには渡航ビザが必要で、初めは半年で廻れると思ったので、6ヶ月ビザを取ったが、計算したら6ヶ月では足りないことがわかり、一年間滞在できるワーキングホリデー・ビザを再取得した。インターネットが無い時代だったので、図書館に行き、オーストラリアの地図をコピーし、気象情報を調べて、渡航計画を立てた。道がどんな状況なのか、道があるのかも検討がつかなかったが、気候と偏西風を考慮して、「シドニーから反時計回り」に決定した。
事前調査は大事だ。オーストラリアを一周中のパースで、ワーキングホリデーで来たばかりの日本人に会った。彼をそそのかして、彼にもオーストラリア一周を挑戦させてしまった。僕のキャンプ用品を買ってくれたいい人だったが、僕の助言を聞かずに、当時流行りのマウンテンバイクで時計回りの旅行を始めたそうだ。風の噂で、偏西風のやられて、数週間後に辞めてパースに戻ってきたそうだ。反時計回りは、何故か罪悪感を感じるものだが、事前調査により、「反時計回りが正義」だと決まった。
インターネットも携帯電話も無い時代は良い。情報量が少ないが、ノイズも少ない。Twitterも携帯電話も無いので、人の意見に惑わされることもない。それに、夢を見ることが出来る。オーストラリアのアウトバックは苛酷さは全く予想していなかったが、砂漠一面に花が咲いている写真を一枚だけ、図書館での事前調査中に見つけました。どこで見れるかわからないが、「こんなの見れるかな~」と夢を見せてもらった。
今、同じように「ルビコン川に七色の橋」をかけて渡ったとしても、30秒後にはスマホからGoogle先生に聞いてルートを決めてもらい、Weather.comで最高の出発時期を決めてもらう。その過程で、何千のオーストラリアの写真をインターネットで見ることになるだろう。そして、沢山の先人たちの試みを読んでしまう。そして、Facebook、Twitter、携帯電話で、みんなの意見を聞いて、玄人を紹介してもらう。そこにはもう冒険はない。インターネットと携帯電話によって、装備や安全性を確認できるが、夢を見ることが難しくなってきていると思う。
僕の意思は決まっていたが、未成年者だしし、若造なので、親の同意が必要だと思っていた。四畳半の家には電話がないので、近くの公衆電話から、大事な話があることを伝えた。そして、僕はオーストラリアの地図のコピーを持って、実家に帰る。19歳の僕は応接間で両親に対面する。セロハンテープでつないだオーストラリアの地図を広げて、一大プレゼンテーションを行った。どれだけ、僕の計画が安全であるかを証明することがプレゼンテーションの目的だ。今だったら、「オーストラリアを自転車で一周することが、どれだけ世界平和に貢献して、将来のキャリアにプラスなのか」、最低でも「カンガルーの保護」を訴えて、プレゼンテーションを行う方が、両親の了解を得やすいよとTwitterで助言を得られるだろう。
当時の自己満足野郎の僕は、直球勝負で、「この旅行は高校時代の夢を裏切らないために、大事なんだ!ね、安全でしょ。だから、行かせてよ。自分のお金でいくし、保険も掛ける。迷惑はかけません」と説明した。最初は反対されたが、僕は言い出したら聞かない性格だったので、最終的には、「シドニーに住んでいる父親の友人に挨拶をして、時々連絡すること」を条件に了解を得ることが出来た。
親を納得させて、良かったと思った反面、急に不安になった気分が今もどこかに残っている。
「これで後戻りできなくなったな。」
http://cycle93oz-en.takeshitakama.com/2013/12/e1-prologue-1-project-of-finding-myself.html
オーストラリアの自転車一周記のプロローグとして、旅立つ前に話をまず書きたいと思う。今回は、「オーストラリアを自転車で一周する事を決めた経緯」についてだ。
1992年、僕は19歳で東京にいる。4畳半一間、風呂なし、電話無し、トイレ共同の木造モルタル・アパートメントである三楽荘の二階に住んでいる。出窓があり、そこを僕はロフトを呼んでいて、友人から「楽観的だな」と言われていた。
その頃は、良かったことも悪かったこともあったが、思ったように進めなかった時代だった。あまり、思い出したくないので、この頃の話はしないし、聞かないでください。映画やシアターに興味があって、そんな世界で仕事がしたいと考えていた頃だった。また、テントと寝袋をバイクに積んで、日本中を旅行していた時代でもある。
今は、「ゆるキャラ」の姿勢を取っているが、あの頃は「近藤マッチより熱い男」と言われていた。単なる若造の「自分探し」だ。今、自分より若い人が「自分探し」をしているのを見ると、「そんなことしなくても自分はここにあるのに」と思うが、自分も「自分探しプロジェクト」に夢中だった。若い時には、そんな時代も必要なのだろう。
「自分探し」のテーマは色々とあると思うが、僕は「自分の企画をどれだけ妥協せずに実現させるか」だった。世界平和のために活動でなく、純粋に自分の能力の限界に挑む自己満足野郎だった。日本を旅行していたのも、高校時代に「20歳までに日本を一周、25歳までにオーストラリアを一周、30歳までにアフリカを縦断する」と決めていたからだと思う。もちろん、野宿の旅は楽しかった。沖縄には行けなかったが、計画通り19歳で日本を一周した。
「次はどうしようかな~」と、通称ロフトの出窓に腰掛けて、よく考えていた。友人が良く泊まりに来ていた。佐野元春の約束の橋が好きだった。ある日、友人の一人がそのシングルCDを買ってきて、みんなでどんちゃん騒ぎをしている間に、そのCDを無限リピートで再生していた。いつの間にか、みんな寝てしまった。頭にはサビの「今~までの君は間違いじゃない! 君~のためなら、七色の橋を作り、河を渡ろう」が無限リピートされている。翌朝、友人は「飽きたから、このCDやるよ」と、当然のごとくCDを置いていった。
「今~までーの君は間違いじゃない」と口ずさんでいたと思う。まっとうな就職先もあったので、その前に、「次はインドに行こうかな」と思っていた。いろいろなきっかけになった出来事はあったと思うが、根底に「自分探しプロジェクト」があった。就職試験で小論文を書き、「80%ではダメ、100%出しきる」を書いたことを覚えている。おふくろは、「80%でいいじゃない」と言っていた。今思えば、あなたが正しい。しかし、当時の僕は、「妥協しない自分探しプロジェクト」を遂行中だったので、そうは行かない。
21年前の事なので曖昧だが、たぶん通称ロフトで、佐野元春のサビを口ずさんでいる時に、ふと高校時代にに決めた3つの目標を思い出した。
「20歳までに日本を一周、25歳までにオーストラリアを一周、30歳までにアフリカを縦断する」
「やっぱり、次はオーストラリアだろ」
次の目標がふと決まりまった。意思を変えないレベルで意思決定することを「ルビコン川を渡る」を言うが、僕的には佐野元春の「七色の橋を作って河をわたってしまった」のだと思う。意思が決まったら、行動は早かった。
「ホンダ・カブで行くか、いやせっかくだから自転車だろう。」
「右回りか、左回りか?」
「お金はどれぐらい必要なのだろう?」
「日本じゃないからパスポートって物が必要なのだろう。」
当時の手帳には、沢山の「やること」リストが書いてあったと思う。海外に行ったことがなかったので、パスポートをまず作った。オーストラリアに行くには渡航ビザが必要で、初めは半年で廻れると思ったので、6ヶ月ビザを取ったが、計算したら6ヶ月では足りないことがわかり、一年間滞在できるワーキングホリデー・ビザを再取得した。インターネットが無い時代だったので、図書館に行き、オーストラリアの地図をコピーし、気象情報を調べて、渡航計画を立てた。道がどんな状況なのか、道があるのかも検討がつかなかったが、気候と偏西風を考慮して、「シドニーから反時計回り」に決定した。
事前調査は大事だ。オーストラリアを一周中のパースで、ワーキングホリデーで来たばかりの日本人に会った。彼をそそのかして、彼にもオーストラリア一周を挑戦させてしまった。僕のキャンプ用品を買ってくれたいい人だったが、僕の助言を聞かずに、当時流行りのマウンテンバイクで時計回りの旅行を始めたそうだ。風の噂で、偏西風のやられて、数週間後に辞めてパースに戻ってきたそうだ。反時計回りは、何故か罪悪感を感じるものだが、事前調査により、「反時計回りが正義」だと決まった。
インターネットも携帯電話も無い時代は良い。情報量が少ないが、ノイズも少ない。Twitterも携帯電話も無いので、人の意見に惑わされることもない。それに、夢を見ることが出来る。オーストラリアのアウトバックは苛酷さは全く予想していなかったが、砂漠一面に花が咲いている写真を一枚だけ、図書館での事前調査中に見つけました。どこで見れるかわからないが、「こんなの見れるかな~」と夢を見せてもらった。
今、同じように「ルビコン川に七色の橋」をかけて渡ったとしても、30秒後にはスマホからGoogle先生に聞いてルートを決めてもらい、Weather.comで最高の出発時期を決めてもらう。その過程で、何千のオーストラリアの写真をインターネットで見ることになるだろう。そして、沢山の先人たちの試みを読んでしまう。そして、Facebook、Twitter、携帯電話で、みんなの意見を聞いて、玄人を紹介してもらう。そこにはもう冒険はない。インターネットと携帯電話によって、装備や安全性を確認できるが、夢を見ることが難しくなってきていると思う。
僕の意思は決まっていたが、未成年者だしし、若造なので、親の同意が必要だと思っていた。四畳半の家には電話がないので、近くの公衆電話から、大事な話があることを伝えた。そして、僕はオーストラリアの地図のコピーを持って、実家に帰る。19歳の僕は応接間で両親に対面する。セロハンテープでつないだオーストラリアの地図を広げて、一大プレゼンテーションを行った。どれだけ、僕の計画が安全であるかを証明することがプレゼンテーションの目的だ。今だったら、「オーストラリアを自転車で一周することが、どれだけ世界平和に貢献して、将来のキャリアにプラスなのか」、最低でも「カンガルーの保護」を訴えて、プレゼンテーションを行う方が、両親の了解を得やすいよとTwitterで助言を得られるだろう。
当時の自己満足野郎の僕は、直球勝負で、「この旅行は高校時代の夢を裏切らないために、大事なんだ!ね、安全でしょ。だから、行かせてよ。自分のお金でいくし、保険も掛ける。迷惑はかけません」と説明した。最初は反対されたが、僕は言い出したら聞かない性格だったので、最終的には、「シドニーに住んでいる父親の友人に挨拶をして、時々連絡すること」を条件に了解を得ることが出来た。
親を納得させて、良かったと思った反面、急に不安になった気分が今もどこかに残っている。
「これで後戻りできなくなったな。」
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