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1993年に8ヶ月かけて約18000キロを自転車でオーストラリアを一周した。このサイトはその事を今更ながら、公開しようと思う。
この自転車旅行を行ったのは、ちょうど20年前のことだ。自分でも段々、記憶がぼやけてきた。たまに友人を昔話をすると、「砂漠一面に花が咲いてさー」とか、「500キロを40リットルの水を積んて無補給で走ることがあったよ」とか、話が出てくる。ちょうど半年前の2013年7月9日に、一時帰国で日本に帰った時にも、同じような事があった。中年になって、同じようなことばかり言うのも嫌だと思うが、昔話になり、20代の友人と居酒屋で楽しんでいた。
その中のひとり、
長島さんに、「その話面白いですね。本にしたらよいと思います」と言われた。他の人にも、「本にしたら絶対に買いますよ」と言ってくれた。研究者として、学術誌に論文を投稿はしていたが、本を書くことには興味がなかった。特に、日本語で長文を書いた事がなかったので、自信もなかった。しかし、20年経って、自転車旅行の曖昧な記憶が、綺麗サッパリ消えてしまう前に、本にするのは面白いかと思い始めた。初めて、本を書くには良い題材かも知れない。いまは簡単に自主出版も出来る。
そんなことをぼんやりと考えつつ、一時帰国の本当の目的である親父の一周忌に出席するために、四日後に愛知県の実家に帰った。一周忌は、淡々とすすみ、お坊さんのありがたいお言葉を聞いて終わった。昨年、30代の最後に親父を無くすとは思ってもいなかった。親父も60代であの世に行くとは思っていなかっただろう。この一年、人生は短いなと思いっていた。「明日があるとは限らないな」と心の中でいつもつぶやいていた一年だった。親父は、おふくろとの旅行を内緒で企画していたが、それは実現しなかった。「僕はどうなんだろう。何かやってみようを思うことはないだろうか。」これも自問していた一年だった。
なんとなしに、実家の自分の部屋だった所に行くと、本がぎっしり詰まった本棚がある。高校時代は全然勉強しなかったが、本は沢山読んでいたので、その頃の本が今だに詰まっている。眺めていると、実家に帰ると時々開けてみる昔の日記達に目が留まった。その中に、オーストラリアの自転車旅行の日記もあった。
20歳の「カッコつけ」だったので、オーストラリアのビールのラベルとトップレスの女性のシールが張ってあった。20年後に客観的に見ると、なんじゃこりゃで、何がかっこいいかわからないが、20歳の僕は必死にカッコつけしていたのだろう。また、なんとなしに、その日記をランダムに開けてで読んでみた。
「ほんとだ、面白いな。」
20年経っているので、客観的に読むことが出来きる。1993年は、クリントンが大統領になった年で、Jリーグが開幕した年だ。日本では、チャゲアスが「YAH YAH YAH!今から一緒にぃ これから一緒にぃ 殴りに行こうかぁ~ ♪」と物騒な事を歌っていたそうだ。僕には、
4 Non BlondesのWhat´s Up が頭にこびりついていた年だった。携帯電話もインターネットもなかった頃の旅行だ。バックパッキングの旅行はいつも一人だった。自転車に乗って、オーストラリアのアウトバックを走っていると、完全に閉ざされた精神世界だ。アボリジニやジプシーに会っても、彼らが何者なのか、何が正しいのか判断する基準が自分の思考にしかない。今から読むと、「何を間違っていることを言っているの」とツッコミを入れたくなるが、20年経っていると、20歳の自分は他人なので、客観的に読めて恥ずかしくない。
客観的に読めるので、「本にしてみてもいいかな」、「いや、本にするか!」とスイッチが入った。この時は既に、JICA専門家を延長しないことに決めていた。JICAのプロジェクトはとても面白いものだったが、家族の事情と、父親の死から何か新しいことをしてみたい気持ちが強かった。奥さんは
ヴィラ経営をするし、僕は時間はできるし、自由になる。新しいことの一つで「20年前にオーストラリア旅行を本にしてみましょう」と20歳の僕と共同作業をすることをこの時約束した。
小説「
秒速5センチメートル」では、明美は男の子に向けて書いた手紙を少しだけ開けて、「大人になってからで今まだ開けるときではない」手紙を後じてしまうが、私には、自分の日記を開ける時が来たのだろう。そして、日記を閉じて、再度1ページ目から開けた。「なんじゃこりゃ、こりゃ面白くない」。
初日はこれだけ。
朝食パン
昼飯 バター。ハニーレモン
夕食チキンセット $4.50セント
今日できるはずのカードが出来ていず。すごいアップ& ダウンのルートを通る。とりあえず初日55.4キロメートル
しかし、日記のページを進めるごとに、文章の量が増えていく。内容も面白くなってくる。それから、字も綺麗になっていく。自分の成長が見て取れる。イチローも「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道だと感じている」と言っている。彼の偉業に比べることは出来ないが、それが見て取れる。
この二枚の写真を比べれば、成長度もよくわかる。一枚目はシドニーを出発した日の僕で、二枚目は約半年後にナラボー平原を突っ切っている僕だ。半年で、にじみ出てくる物がここまで変わる。これが「コツコツの強さ」だ
「コツコツの強さ」が、オーストラリアを自転車で周って学んだことだ。毎日、100キロを自転車で走れば、7日で700キロ、3ヶ月で9000キロ走ることが出来る。だから、だれでもオーストラリアを自転車で周ること出来る。出来ないとしたら、途中で辞めてしまったからだ。オーストラリアに来る前は、全く英語が話せなかった。そのうち書くが、旅行を始めてすぐの事故がきっかけで、毎日テントの中で、ロウソクの明かりで英語を勉強することにした。今では、日本語より英語の方が問題なく話せるぐらいだ(笑)。その後も、この精神は継続された。
コツコツと夕食後に英語を独学して、NHKの英語ラジオ講座を聞きながらお風呂に入り、学費と生活費をためて、ニュージーランドの大学に行った。それからも毎日勉強を続けて、3年半で経済学、統計、生物学を取った。その甲斐があって、オックスフォード大学から奨学金をもらって、修士と博士を取った。博士過程もコツコツと毎日研究し論文をかいた。1000日で博士号を取得すると決めて、999日目に最終弁論を行った。最近は、毎朝4時半に起きて、朝食前にサーフィンに行くことにしている。毎日続けることが大事。毎日続けると、どこかに行ける。毎日続けると、習慣になって努力する必要がなくなる。
オーストラリアを自転車で周った時に話を戻すと、毎日の生活はロボットの様だった。日の出前の朝4時には起きて、昨晩自炊した残りを朝食として食べる。テントをたたんで、日が昇ると共に自転車をこぎ始める。昼は半斤のパンを食べる。一日大体100キロから120キロを走る。結果がどうであれ、午後4時には走るのをやめて、車のヘットライトから見つからない様な道脇の藪(ブッシュ)に入っていく。テントを立てて、自炊をする。大体はピラフの様なものかパスタだった。ご飯が炊けるまでの間に、自転車、テント、服の修理をする。大体、毎日何かどこかの修理が必要だった。夕食は何でも、「美味しい、美味しい」と独り言を言って食べた。至福の時間だ。お風呂は入れないので、ベビーパウダーを全身にふりかけるか、トイレットペーパーで汗を軽く拭き取る。アウトバックは昼は気温が高いが、砂漠なので夜の気温は下がる。全て終わって、疲れきって、テントに入り寝袋に潜りこむ。親に送ってもらった高校の「英語構文II」を勉強する。ロウソクでテントに穴を開けたこともあるが、毎日勉強は続けた。そして、倒れるように僕の世界が終わる。そして、翌日、日の出前の朝4時から、新しい世界が始まり、僕はロボットの様に前日と同じ事を繰り返す。
これを、8ヶ月続ければ誰でも、オーストラリアを自転車で一周することが出来る。インターネットも携帯電話もなかった時代なので、この道の先に何があるのかわからない。どうなっているか心配だったが、僕も自転車で一周することができた。
今新しいことに挑戦してみようと思っているので、自分の原点に戻るのも良いと思う。この先どうなるかわからない。今一度がむしゃらに、そしてコツコツと人生を進めていく必要があると思う。その為には、20年前の「近藤マッチより熱い男と言われていた」無垢な若造に向き合うのは悪く無い。8ヶ月の日記をアップして行くので時間がかかると思うので、お付き合いいただけますと幸いです。
最後に、これは個人的な本プロジェクトのドラフトなので、校正してくれる人がいません。もし、ブログを読んで、日本語の訂正か、文章を改善をご指摘していただけますと大変助かります。ご連絡は、ブログのコメントもしくはツイッターでよろしくお願い致します。
https://twitter.com/TakeshiTakama
よろしくお願い致します。
2013年11月27
高間 剛 バリ島にて