2013年12月30日月曜日

[J:22] 1993年5月19日 水曜日 その海が問題で・・・。~Karumba pointの キャラバンパーク 8ドル~



朝 パン、バナナ、アップル
昼 パン、アップル、 beer 、トマト
夕食 グラント、ライス

パン 1.7ドル

今日は、昼にビア、トマト、夕食にグラントと言う白身の魚(つったばかりでフレッシュ)を4月30日にギンギンgin ginのレストエリアであったた夫婦に分けてもらった。

海で泳いだら、すぐ近くにペリカンを見れて、ラッキーな日だと思っていたら、その海が問題で、昨日は、僕の2から3倍のクロコダイルが見つかったらしい。 もっと 大きいシャークもいるらしい。 つまり、海水浴禁止の場所だったらしい。そういえば僕の他に泳いで人がいなかった。 プレジャーというと、嬉しいという意味らしい。 今日は、どこそこで、お前見たぞと何人にも言われた、おかしな日だ。

DST 72km
ODO 3,344キロメートル

2013年12月29日日曜日

[J:21] 1993年5月18日 火曜日 「2ドルちょうだい」 ~Normantonの キャラバンパーク 5ドル~

朝 パン、オレンジ、アップル
昼 パン、オレンジ、アップル、クッキー
夕食 ガーリック、ソーセージのトマトペースト、ミルク

ガーリック、ソーセージ、バナナ、バター、ミルク 6.95ドル

プールに入ってきもちよかった。結局、ノーマントンまできてしまった。 というのも、あのハエに追い立てられたからだ。 スピード落としたら、ハエがたかってきて、ダートでも時速20キロ以上で走っていた。 休憩したら、もう何十匹のハエがたかってきたことか。 プールで、シェーンというアボリジニの少年に会った。 彼は、白人の家族と一緒に住んでると言っていた。 僕に何度か、「2ドルをちょうだい」 とねだっていた。 ここは、小さな町だ。都会よりは、白人とアボリジナル仲良く住んでいるように見える。 実際はどうなんだろう。

DST 152キロメートル
ODO 3,272キロメートル

2013年12月28日土曜日

[J:20] 1993年5月16日~17日 動機が純粋だが社会性の無いプロジェクトでもいい ~オーストラリアをチャリティで歩いているNobby氏に会って思うこと~

1996年5月16日に会ったNobbyさんの事はよく覚えている。写真に写っている帽子は、実家の自分の部屋だった所に、長い間トロフィーの様に引っ掛けてあった。ベットがあった足側の壁に掛けておいたので、そこで寝ることがあったら、朝起きた時に一番最初に目に入っただろう。スポンサーであるオーストラリア郵便局のロゴが白地に大きく赤でプリントされた帽子は、母親には何かの景品の粗品にしか見えなかったのだろう。残念ながら、いつの間にか捨てられていた。その部屋は、すでの私の部屋では無いのでしょうがないことだ。

Nobbyも彼のマネージャーも彼の偉大な歩きを記録していたカメラマンも、常に笑顔でいい人だった。僕は天邪鬼なので、いい人を見ると逆に疑り深くなってしまう。当時、冗談半分で、長所と短所の欄(日本の履歴書には今もこんな欄があるのだろうか)に、「長所:好青年に見える所。短所:実はそうではない所。」と書いた事もある。かっこ良く書けば、吉川英治氏の宮本武蔵の小説で、宮本武蔵が宝蔵院を訪れた時に、武蔵の殺気の強さが、鎌を持った老人に跳ね返り、その老人から殺気を感じる様なものと同じで、自分の腹黒さが跳ね返って、良い人を見ると「お前、腹黒いだろう」を斜めから見てしまう。

しかし、Nobbyチームは本当にいい人で、いいおっさんで、恵まれない子供たちのチャリティの為に歩いていると言っていた。一方、40歳の私には既にくだらない事になってしまったが、当時は、それこそ命がけで「自分の企画をどれだけ妥協せずに実現させるか」の自分探しプロジェクトのためだけに、20歳の僕は自転車を前に進めていた。

僕がちっぽけに思えた。


2013年12月27日金曜日

[J:19] 1993年5月17日 月曜日 良いこと探し ~Croydonのキャラバンパーク 7ドル~





朝 パン、バナナ、オレンジ
昼 パン、バナナ、オレンジ、クッキー、アップル
夕食 ホットドック、アップル、オレンジ

ソーセージ、パン、バター、クッキー 12.1ドル

今日の嫌だったことを書いてみよう。まずウォッシュボードのダート。 そして、あのハエの多いこと 、フロントキャリアが壊れてしまったので、修理をしている時、何度も発狂してしまったことか。 キャリアが壊れたことよりも、暑さより、あの鬱陶しいハエに頭にきた。Nobbyの 背中と帽子に、何匹のハエがとまっていたことか。 そして、良かったことは、Nobbyと 一緒にあるけて、 Tシャツをプレゼントしてくれ、映画ができたら、送ってくれると言ってくれたこと。 野生の花見つけた。 朝顔もあって小さい花のかたまりは美しかった。 ノーマントンの小学生たちに会って、フルーツをたくさんくれたこと。 きっと会いに行くからね。なにはなくとも、シャワーを浴びれたこと、明日ブッシュキャンプだと諦めがついたこと。 そうそう、せっかく買ったバターがほとんど気化しちゃったこと。ランプが壊れて、フロントサイドバックがオイルまみれになってしまった。 とにかく、良かったことだけ、覚えておくことにしよう。 そうそう、スピードメーターも、完全に壊れちゃった。

DST 148キロメートル
ODO 3,120km

2013年12月26日木曜日

[J:18] 1993年5月16日 日曜日 Nobbyの偉大な歩み ~ジョージタウンのキャラバンパーク5.5ドル~

朝 夕食の残り、パン
昼 パンビスケット、ミルク、パインジュース
夕食 ラムステーキ、パン、バナナ、アップル

ラムステーキ、ライス、パン、石鹸 4.7ドル

今日は ビュッ、 ビュッ、 ビュッ、 ビューティフルサンデーといった感じの日だ。 今日のルートは辛いと思っていたら、昼過ぎに着いてしまい、拍子を抜けてしまった。 だけど、たくさんの美しい景色あるし、 1966年の今はもう無い2セント銅貨はもらうし、おばさんの作ってくれたパインジュース美味いし、最高だぜ。 牛に前を塞がれたときは、さすがに恐ろしかったけど。



2013年12月25日水曜日

[J:17] 「出来る」と信じれば転ばない ~アウトバックの道路状況~

アウトバックに入ってきたので、この広大な地域の説明を少ししたいと思う。今回は特に、アウトバックの道路事情について書く。これは、1993年の経験なので、今とは違っているかもしれないので、今から自転車でオーストラリアのアウトバックに向かう方は、グーグル・ストリートマップでも参考にしたほうがいいと思う。シンクタンクのレポートを読むと、本文に関係ない説明文が枠で囲った中に書かれていることがあるが、これはそのボックス記事の一ついう事にしておく。

アウトバックとは、オーストラリアの内陸部に広がる不毛地帯のことを指す。オーストラリアの人口の2268万人の90%以上は自然環境の素晴らしい沿岸域にすんでいるので、オーストラリアの大部分には人がほとんど住んでいないことになる。それでも、オーストラリアの2つの重要産業である観光と鉱山の為に人が住んでいるところも多少ある。その為、日本の放送大学の様な通信教育(School of Air)や、飛行機を使った医療サービス(Flying doctor)を使い、インフラを整備する代わりにリモートでサービスを提供している。中途半端に多数の人が遠隔地に住んでいると、シベリアの都市の様に、インフラ整備にお金がかかることになるが、アウトバックには本当に少数しか住んでいないので、財政面からしても、リモートでサービスを提供できる状況はオーストラリア政府にとっても良かったのかもしれない。

2013年12月22日日曜日

[J:16] 1993年5月13日~15日 ケアンズを出発 ~Athertonから、Mt. Surprise~




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1993年5月13日木曜日 Athertonのキャラバンパーク 7ドル


朝フレーク、パン、卵、ミルク、オレンジ
昼 オレンジ、 パン
夕食 パン、ソーセージ、バナナ、オレンジ

今日は、本当にきつかった。久しぶりにきつかった。はじめの20キロ ぐらいは猛烈に、up up upそしてアップ& down。 その後は、ここまでに緩やかなupとむかい風。イナスフル からの方がきついときいたが、そしたらよっぽどきついのだろう。

DST 97.8キロメートル
ODO 2,653.8キロメートル

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1993年5月14日金曜日 Mt. Ganetの キャラバンパーク 7ドル


朝パン、ソーセージ、バナナ、オレンジ
昼 パン、フレイク、バナナ、オレンジ
夕食  ハムとガーリックのトマト丼、ミルク

駄菓子、0.5ドル
パン、オレンジ、トマト 2.1ドル
クッキー1.55ドル
ハム、ミルク4.55ドル

前半の45kmは北海道に、椰子やら パパイヤの木を植えたような景色で辛かった。 前半の50キロメートルは、 また、 巨大な蟻塚と赤土が世界に戻ってしまった。だけどぼくは、こっちのほうが幾分楽なので好きだ。前半はほとんど、自転車に乗るというより押しているような感じだった。

明日のために、今日はニンニクを食べる。

DST 100キロメートル
ODO 2,753.8キロメートル

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1993年5月15日土曜日 Mt. Surpriseの キャラバンパーク 5ドル


朝 パン、夕食の残り、オレンジ、ミルク
昼 パン、クッキー、オレンジ
夕食トマト丼、ミルク

パン、ソーセージ、ミルク 4.75ドル
トマトペースト 2.35ドル


ハイウェイを離れてからは、追い風で楽しかった。35 km/h 前後のスピードで走れたのだから。 反対から来る車を考えるとぞっとする。 ここであった、おじさん&おばさんたちにカフェに連れて行ってもらった。 「スパイダー」を頼んで、僕に「何だと思う?」と楽しそうに聞いていた。 蜘蛛に関係があるかと思ったけど、なんてことはない、「クリームソーダ」だった。 だけどあの大量のアイスクリーム入ってクリームソーダは今日のように暑い日には最高だね。 gridと呼ばれる井桁なような 橋をいくつも渡たったけど 、あれは牛が超えられないようにするためのものらしい。 今までに 勇気がある牛であれを越えた牛はいないのだろうか。超えられそうな気がするのだが。

DST 123.25キロメートル
ODO 2,877.0キロメートル

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2013年12月21日土曜日

[J:15] 1993年5月8日~12日 僕と私の使える英語力 ~20歳からでも間に合う英語の勉強方法~


第二のマイルストーンのケアンズまでついた。ここが東海岸の最終目的地で、ここからアウトバックと言われるオーストラリアの内陸部に入っていく。次に海から朝日を見ることが出来るのは、何ヶ月も後のことになるはずだ。景色の背景に入ってくる植物も、椰子の木や真っ赤な大きな南国の花になる。ケアンズは、ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代に、某建設会社が作ったといわれる大リゾート地域だ。バックパッカーズホステルでは、自転車乗りで培った大食いでスパゲッティの大食い大会を優勝したり、グリーンランドにも行って観光旅行を楽しんだ。インターネットが無いので、アナログ通信手段である三通の手紙と八通の葉書を、親、友人、そして日本でお世話になった方に書いた。僕の受取先は、数ヶ月にたどり着くはずの郵便局の局留めしておいた。数ヶ月後に、その郵便局に辿り着き、返事の手紙を受け取ることができるだろうか。

それから、これからアウトバックに入っていくので、自転車の整備と必要な装備を買い足そうと思っていたが、何も買わなかった。タウンズビルで自転車の整備をして、僕の英語が下手でうまくコミニュケーションが出来なかったためか、満足行くような整備にならなかったので、ケアンズの自転車屋に期待していなかったのも理由の一つだ。しかし、身軽であることは、人力での旅行では大切で、装備を増やさなくてよかったと思う。今だに、一ヶ月ぐらい世界中のどこかへ行く事になるとしても、手荷物のキャリーバッグだけをもって飛行機に乗る。オーストラリアの自転車旅行の頃と同じで、荷物リストを作り、本当に必要なものだけを持っていく。必要かどうか迷ったら、持っていかない。実際に入り用になったら現地で買えばいい。それは、自分への良いお土産になるはずだ。これが、バックパッカーからジェットセッターになった私の出張術。


2013年12月20日金曜日

[J:14] 1993年5月8日~12日 ケアンズに到着 ~Inghamから、ケアンズ~



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1993年5月8日土曜日 Inghamの安宿 10ドル

朝 パン、クッキー
昼 パン、バナナ、オレンジ 4.1ドル
夕食 ソーセージサンド、オレンジ、ミルク

Jam、パン 1.75ドル
オレンジ、ガーリック、ソーセージ、バター 8.1ドル
ミルク、チョコ 2.05ドル

今日は途中で手作りジャムを買った。なかなか美味しい。 さすがにここまで、北上してくると、暑くなってきた。 take a breakの度に あの暑さが来ると思うと、内陸部に入ってから心配だ。
このホテルは、バックパッカーとは、実は少し遅感じが違っている。 こういうのが本当の安宿なんだろう。ここで 会ったサイクリストとは明日会えるのだろうか。

DST 115.22 キロメートル
ODO 2,317.2キロメートル

2013年12月19日木曜日

[J:13] 1993年5月2日~7日 20歳の自由と40歳の自由 ~這いずりまわるか、禅か~


1993年の4月2日に最初の出発をしたので、その日から丁度一ヶ月経ったことになる。このあたりまで来ると、自転車で旅行するのにある程度適した道路事情になる。相変わらず、ロードトレインとそのミニチュア版が通るたびに冷や汗をかくが、大都市を離れて絶対的は交通量は減っている。しかし、旅行をしていると思われる人達は増えているように思えた。旅行の手段は、コーチ(長距離バス)、車、オートバイ、自転車がある。一番一般的な旅行は、グレイハウンドや、オージー・エクスピリエンスのコーチバスに乗って、町から町に移動するものだろう。奥さんも大学生の時に、シドニーからダーウィンまで、オージーエクスピリエンスで旅行している。話を聞いたら面白そうだったが、20歳の僕には、旅と言ったら、自分で行き先と寝る場所を、行き当たりばったりで決める事だったので、自分で運転できない公共交通機関での旅は興味がなかったし、軟弱だと思っていた。

2013年12月18日水曜日

[J:12] 1993年5月2日~7日 タウンズビルに到着 ~ロックハンプトンから北70キロから、タウンズビル~




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1993年5月2日日曜日 ロックハンプトンから北70キロメートルにブッシュキャンプ


朝 パン、夕食の残り
昼 パン、バナナ
夕食 bigなソーセージ、パン

パン、オレンジ、ソーセージ50.6ドル


今日は、クリス(40歳)&アンナ(30歳)にあった。 クリスはオージーでアンナはスイス人。 2人は一体どんな関係なんだろう不思議だ。 それにしても、 2人ともとても早い。そして若い。 自転車は、とても健康に良いのだろう。

今日のソーセージは、とてもおいしかった。 日本のとは、 比べ物にならない。そしてめちゃくちゃ安い。 明日の朝は、ぼくは早く起きるので、 2人には会えないないなぁ。 だけどきっと、 somewhere sometimeに会えるだろう。

DST 153.0キロメートル
ODO 1,546.8キロメートル


[J:11] 1993年4月28日~5月1日 コツコツの始まり ~行動パターンの形成と持久力~ 

ブリズベンを過ぎると段々と、自転車で快適に走れるようになってくる。交通量は少なくなり、道の上り下りも、シドニーを出た頃に比べて少なく、そしてなだらかになって来た気がする。しかし、実は自分の持久力が上がっただけかもしれない。

ブリズベンに到着するまでは、一日に100kmを自転車で走るのが辛く、120km走るとふらふらになっていた。しかし、この頃になると、120kmを自転車で越えるのは問題ない。150km走ることも何度かあった。しかし、前回の脱水症状から、無理をしない事を学び、ギリギリまで走ることはしなくなった。この頃には、最初のエピソードで書いた、ロボットのような一日の活動パターンが出来上がった。朝4時に起きて、夕方4時まで走る。疲れ知らずで、大量の装備と食料・水を運んでも、そのうち一日150kmを走るのが、物足らなくなってきた。しかし、4時以降は、自転車やその他の装備の修理と勉強に当てた。1993年4月18日にシドニーを再出発して、ブリズベンを出たのが4月28日なので、約2週間で持久力はついたのだろう。その頃には、背中の傷も治っていたので、全力で飛ばせるようになった。若さは素晴らしい。40歳の私が同じことをしても、こうは行かないだろう。40歳の私は数時間走ったり、サーフィンしたりすると、2、3日はなかなか疲れがとれなくなってきている。


2013年12月16日月曜日

[J:10] 1993年4月28日~5月1日 ブリズベンを出発 ~ブリズベンから、Mt. Larcom~



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1993年4月28日 Gympieから南に10キロ位の キャラバンパーク 6ドル


朝 パン、卵、ミルク
昼 パン、ミルク、オレンジ、バナナ
夕食 コーンとハムのカレーピラフ 3ドル

クレープ 2ドル

今日もキャラバンパークにとまってしまった。少し、お金をセーブしなくてはいけないのに。

しかし、汗をかくと、シャワーを浴びたなってしまう。 東京では、銭湯が320円だったのを思うと、 6ドルも安いかな、いや高い。 これは…どうしよう。

DST 157.0キロメートル
ODO 984.0キロメートル

2013年12月15日日曜日

[J:9] 1993年4月22日~27日 旅行の定義の再定義  ~経験から得られた知識~


オーストラリアの東海岸、特にシドニーからブリズベンまでは、無理をしなければ食料、水、その他の補給物資に困ることは無い。一番楽な区間だと思っていたから、アウトバックに行くまでのトレーニング区間と捉えていた。トレーニング区間になったのは事実、楽だったのは嘘。この区間は道がアップダウンの連続で、何度も自転車から降りなくてはならなかった。だから、靴底はかなり擦り切れて、ボンドのような修正材で治す必要があった。それでも、自然環境が好きな僕は、日本列島改造論か、ケネジアン経済政策の為に、トンネルで穴ぼこだらけにされている日本の山より好きだった。汗だくで自転車を漕いでいる上に、車の交通も多いので、相変わらず交通事故を心配してさらに冷や汗をかいていた。

2013年12月14日土曜日

[J:8] 1993年4月22日~27日 ブリズベン到着  ~Woombahからブリズベン~






1993年4月22日 Woombahの キャラバンパーク 8ドル

朝 パン
昼 パン
夕食 シャーク&ビール (VB)、 リンゴ、アイスクリーム

1.2リットルのペプシ 1.3ドル


今日は無理をしすぎた。だけどこのキャラバンパークのオーナーは親切で、僕に夕食を食べさせてくれた(シャーク)。 それとビール、りんご、キウイ、チョコもくれた 。 カンガルーも見せてくれた。それから立ちしょんべんをした後に、パッションフルーツもくれた 。 アイスクリームも、そしてビリヤードもした。とても疲れた 。


2013年12月12日木曜日

[J:7] 1993年4月18日~21日 自分探しプロジェクトの終了の始まり ~再出発からの教訓~


English version is here!(英語版はこちら)
http://cycle93oz-en.takeshitakama.com/2013/12/e7-1993-april-18-to-21-beginning-of-end.html

特定の曲を聞くと、その曲がテーマソングになって聞いていた当時を思い出す。オーストラリアに来る前は、全く英語が話せなかったし、聞き取りも出来なかった。だから、洋楽をテーマソングにしていた時は、歌詞の内容が活動にそぐわない時が多々ある。例えば、POCOのCall It Loveを聞くと、当時、「やがて笛が鳴り、僕らの青春は終わる」という男臭い小説を読んで、走ってばかりいた高校二年生の冬の水泳部を思い出す。

ジョン・レノンのJust Like Starting Overを聞くと、シドニーからの再出発の頃を思い出すので、その頃、この曲をテーマソングにしていたに違いない。自転車に乗っていた時は、概してくだらない事を考えていたものだ。私は論理的で数学的な人間だと思うが、重要な事は、イメージや音で死ぬまで覚えている。今朝歯を磨いたかどうかを思い出せなくても、当時の写真を見たり、音楽を聞くと、昔の事が際限なく思い出される。大学に入って、これが試験勉強に使えることがわかり、急速に成績が伸びた。この勉強方法はまた、別の機会に話すことにして、20年前のオーストラリアの東海岸に話を戻す。

2013年12月11日水曜日

[J:6] 1993年4月18日~21日 再出発 ~ニューキャッスルから、Coffs narbour~


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http://cycle93oz-en.takeshitakama.com/2013/12/e6-1993-april-18-to-21-restarting-from.html


1993年4月18日 レイモンドテラスの辺のfire place

朝 パン
昼 パン
夕食 ライス

電車 17ドル

今日、電車でニューキャッスルの辺りまで来て、スタートアゲインした。

いきなりリアキャリアのネジが外れて、針金で止めることになる。 この fireplaceはすごくくさくて、さらに馬鹿でかい蟻がいて嫌なところだ。

ODO 37キロメートル


2013年12月9日月曜日

[J:5] 1993年4月5日~17日 「Keep riding」 ~再出発のための準備~

English version is here!(英語版はこちら)
http://cycle93oz-en.takeshitakama.com/2013/12/e-5-1993-april-5-17-keep-riding.html


体も心も疲れきっていた僕は、シドニーに着いた。そして、その日は、父親の友人の家に泊めてもらった。


1993年4月5日シドニー大◯さんの家

朝 バターライス
昼 サンドイッチ
夕食 大◯夫人の手料理

右手が石膏で固まっていてうまく文字が書けない。ニューキャッスルから北に40キロほど行ったところで、トラックに巻き込まれた。引きずられている時間が長く、その間に死を感じた。 救急車中から外を見ている時、来た道を戻るのは嫌だと思った。今自転車を見るのも嫌だ。

DST多分40キロメートル
ODO257.9キロメートル

4月☆日ゆ◯こちゃん誕生日
4月☆日と◯こちゃん誕生日
怪我をしても元気でファイト!
がんばってね



2013年12月6日金曜日

[J:4] 1993年4月2日~5日: 旅の始まりと、赤い自転車とのお別れ。~いきなりクライマックス~

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http://cycle93oz-en.takeshitakama.com/2013/12/e4-1993-april-2-4-beginning-of-journey.html


僕はシドニーの町を右に左に歩いた。20歳の僕は日本から出発する前は、シドニーから早く出発をしたいだろうと思っていた。しかし、初めての海外なので、色々な物を見たくなってしまった。ガイドブックは持ってこなかったので、拙い英語で観光ポイントを教えてもらいとにかく歩いた。キャンピング用品店と自転車のお店だけは、それでもチェックしておいた。

それから、親との約束の一つであった、「シドニーに住む父親の友人」に連絡して、銀行口座を開ける手続きをしてもらった。飛行機を洗って貯めたお金のいくらかはトラベラーズ・チェックと現金でもってきて、残りはシティバンクの口座入れて、オーストラリアから引き下ろせるようにしておいた。これは、飛行機を洗いに来ていた大学生から教えてもらった当時の海外旅行術だ。父のご友人にお礼を言ったら、それ以上シドニーに居る必要はなかった。だから、4月2日にシドニーのハーバーブリッジを渡って、オーストラリア一周を開始した。


2013年12月3日火曜日

[J:3] プロローグ3:僕の「点と点」~シドニーに立つ~

English version is here!(英語版はこちら)
http://cycle93oz-en.takeshitakama.com/2013/12/e3-prologue-3-my-to-dot-landed-at-sydney.html



最後のプロローグとして、費用以外の準備と、シドニーに到着するまでを書く。次からは20歳の僕にバトンタッチする。それでは、どうぞ!


桜が咲くような頃に、飛行機に乗って、成田空港からオーストラリアに行った。三楽荘の隣部屋に住んでいたお兄さんが駅まで見送りに来てくれた。飛行機洗いの仕事の為に、あれほど何晩も通った羽田空港から出発出来なかったが、20年前は、羽田空港は国際空港ではなかったので、しょうがない。

飛行機の仕事は最後までした。オーストラリアの状況が良くわからなかったため、出来るだけ資金をためておきたかった。昼間は大使館に行ったり、図書館に行ったりして、オーストラリアを自転車で一周するための情報を集めた。砂漠は氷点下になると書いてあり、冬山用の寝袋を間違って買ったりした(小山くん:買い取ってくれてありがとうございました)。近所の「町の自転車屋さん」に一週間に数回通って、お手伝いをさせてもらいながら、自転車の整備を学んだ。パンクやタイヤ交換は素早く出来るようになり、チェーンの交換やブレーキを使ったホイールの調整も学んだ。ギヤの調整も学んだが、これはなかなか思うように行かず、オーストラリアを自転車で駆け巡っている時も、ほとんど手をつけなかった。

2013年12月1日日曜日

[J:2] プロローグ2:「労働」と「人付き合い」の教訓 ~自転車旅行費の捻出~

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オーストラリアに話を移す前に、もう少しプロローグを書かせてほしい。今回は、渡航費用の捻出の話だが、「労働」と「人付き合い」の教訓であり、このナイフの話だ。

前回、両親の了解を取った話を書いたが、その頃には既に準備は進んでいた。渡航資金を貯める事をまず、一番初めに始めた。

4月に出発するために、半年で150万円ぐらい貯める必要があった。情熱はあったが、技能と経験がないので、半年で150万円貯めるには、きつい肉体労働しかない。酒屋のバイト程度では、とても半年で150万円貯めることができない。一日一万円以上稼げる夜の仕事を探していた。「羽田空港での航空機機体洗浄」のバイトを見つけた。僕が住んでいた木造モルタルの三楽荘は羽田空港の近くにあり、そのバイトは日給一万円以上で、無料で風呂を使えた。金無し風呂無しの僕のニーズにピッタリだ。すぐに公衆電話からバイトの申し込みをした。「その日もしくは次の日から来てくれ」と言われて、渡航資金を作り始めた。


2013年11月29日金曜日

[J:1] プロローグ1:「自分探しプロジェクト発動」 ~オーストラリアを自転車で一周する事を決めた経緯~

English version is here!(英語版はこちら)
http://cycle93oz-en.takeshitakama.com/2013/12/e1-prologue-1-project-of-finding-myself.html




オーストラリアの自転車一周記のプロローグとして、旅立つ前に話をまず書きたいと思う。今回は、「オーストラリアを自転車で一周する事を決めた経緯」についてだ。

1992年、僕は19歳で東京にいる。4畳半一間、風呂なし、電話無し、トイレ共同の木造モルタル・アパートメントである三楽荘の二階に住んでいる。出窓があり、そこを僕はロフトを呼んでいて、友人から「楽観的だな」と言われていた。

その頃は、良かったことも悪かったこともあったが、思ったように進めなかった時代だった。あまり、思い出したくないので、この頃の話はしないし、聞かないでください。映画やシアターに興味があって、そんな世界で仕事がしたいと考えていた頃だった。また、テントと寝袋をバイクに積んで、日本中を旅行していた時代でもある。

今は、「ゆるキャラ」の姿勢を取っているが、あの頃は「近藤マッチより熱い男」と言われていた。単なる若造の「自分探し」だ。今、自分より若い人が「自分探し」をしているのを見ると、「そんなことしなくても自分はここにあるのに」と思うが、自分も「自分探しプロジェクト」に夢中だった。若い時には、そんな時代も必要なのだろう。

「自分探し」のテーマは色々とあると思うが、僕は「自分の企画をどれだけ妥協せずに実現させるか」だった。世界平和のために活動でなく、純粋に自分の能力の限界に挑む自己満足野郎だった。日本を旅行していたのも、高校時代に「20歳までに日本を一周、25歳までにオーストラリアを一周、30歳までにアフリカを縦断する」と決めていたからだと思う。もちろん、野宿の旅は楽しかった。沖縄には行けなかったが、計画通り19歳で日本を一周した。

「次はどうしようかな~」と、通称ロフトの出窓に腰掛けて、よく考えていた。友人が良く泊まりに来ていた。佐野元春の約束の橋が好きだった。ある日、友人の一人がそのシングルCDを買ってきて、みんなでどんちゃん騒ぎをしている間に、そのCDを無限リピートで再生していた。いつの間にか、みんな寝てしまった。頭にはサビの「今~までの君は間違いじゃない! 君~のためなら、七色の橋を作り、河を渡ろう」が無限リピートされている。翌朝、友人は「飽きたから、このCDやるよ」と、当然のごとくCDを置いていった。



「今~までーの君は間違いじゃない」と口ずさんでいたと思う。まっとうな就職先もあったので、その前に、「次はインドに行こうかな」と思っていた。いろいろなきっかけになった出来事はあったと思うが、根底に「自分探しプロジェクト」があった。就職試験で小論文を書き、「80%ではダメ、100%出しきる」を書いたことを覚えている。おふくろは、「80%でいいじゃない」と言っていた。今思えば、あなたが正しい。しかし、当時の僕は、「妥協しない自分探しプロジェクト」を遂行中だったので、そうは行かない。

21年前の事なので曖昧だが、たぶん通称ロフトで、佐野元春のサビを口ずさんでいる時に、ふと高校時代にに決めた3つの目標を思い出した。

「20歳までに日本を一周、25歳までにオーストラリアを一周、30歳までにアフリカを縦断する」

「やっぱり、次はオーストラリアだろ」


2013年11月27日水曜日

[J:0] このブログについて~コツコツの強さ~

English version is here!(英語版はこちら)





1993年に8ヶ月かけて約18000キロを自転車でオーストラリアを一周した。このサイトはその事を今更ながら、公開しようと思う。


この自転車旅行を行ったのは、ちょうど20年前のことだ。自分でも段々、記憶がぼやけてきた。たまに友人を昔話をすると、「砂漠一面に花が咲いてさー」とか、「500キロを40リットルの水を積んて無補給で走ることがあったよ」とか、話が出てくる。ちょうど半年前の2013年7月9日に、一時帰国で日本に帰った時にも、同じような事があった。中年になって、同じようなことばかり言うのも嫌だと思うが、昔話になり、20代の友人と居酒屋で楽しんでいた。


その中のひとり、長島さんに、「その話面白いですね。本にしたらよいと思います」と言われた。他の人にも、「本にしたら絶対に買いますよ」と言ってくれた。研究者として、学術誌に論文を投稿はしていたが、本を書くことには興味がなかった。特に、日本語で長文を書いた事がなかったので、自信もなかった。しかし、20年経って、自転車旅行の曖昧な記憶が、綺麗サッパリ消えてしまう前に、本にするのは面白いかと思い始めた。初めて、本を書くには良い題材かも知れない。いまは簡単に自主出版も出来る。


そんなことをぼんやりと考えつつ、一時帰国の本当の目的である親父の一周忌に出席するために、四日後に愛知県の実家に帰った。一周忌は、淡々とすすみ、お坊さんのありがたいお言葉を聞いて終わった。昨年、30代の最後に親父を無くすとは思ってもいなかった。親父も60代であの世に行くとは思っていなかっただろう。この一年、人生は短いなと思いっていた。「明日があるとは限らないな」と心の中でいつもつぶやいていた一年だった。親父は、おふくろとの旅行を内緒で企画していたが、それは実現しなかった。「僕はどうなんだろう。何かやってみようを思うことはないだろうか。」これも自問していた一年だった。


なんとなしに、実家の自分の部屋だった所に行くと、本がぎっしり詰まった本棚がある。高校時代は全然勉強しなかったが、本は沢山読んでいたので、その頃の本が今だに詰まっている。眺めていると、実家に帰ると時々開けてみる昔の日記達に目が留まった。その中に、オーストラリアの自転車旅行の日記もあった。

20歳の「カッコつけ」だったので、オーストラリアのビールのラベルとトップレスの女性のシールが張ってあった。20年後に客観的に見ると、なんじゃこりゃで、何がかっこいいかわからないが、20歳の僕は必死にカッコつけしていたのだろう。また、なんとなしに、その日記をランダムに開けてで読んでみた。


「ほんとだ、面白いな。」


20年経っているので、客観的に読むことが出来きる。1993年は、クリントンが大統領になった年で、Jリーグが開幕した年だ。日本では、チャゲアスが「YAH YAH YAH!今から一緒にぃ これから一緒にぃ 殴りに行こうかぁ~ ♪」と物騒な事を歌っていたそうだ。僕には、4 Non BlondesのWhat´s Up が頭にこびりついていた年だった。携帯電話もインターネットもなかった頃の旅行だ。バックパッキングの旅行はいつも一人だった。自転車に乗って、オーストラリアのアウトバックを走っていると、完全に閉ざされた精神世界だ。アボリジニやジプシーに会っても、彼らが何者なのか、何が正しいのか判断する基準が自分の思考にしかない。今から読むと、「何を間違っていることを言っているの」とツッコミを入れたくなるが、20年経っていると、20歳の自分は他人なので、客観的に読めて恥ずかしくない。


客観的に読めるので、「本にしてみてもいいかな」、「いや、本にするか!」とスイッチが入った。この時は既に、JICA専門家を延長しないことに決めていた。JICAのプロジェクトはとても面白いものだったが、家族の事情と、父親の死から何か新しいことをしてみたい気持ちが強かった。奥さんはヴィラ経営をするし、僕は時間はできるし、自由になる。新しいことの一つで「20年前にオーストラリア旅行を本にしてみましょう」と20歳の僕と共同作業をすることをこの時約束した。

小説「秒速5センチメートル」では、明美は男の子に向けて書いた手紙を少しだけ開けて、「大人になってからで今まだ開けるときではない」手紙を後じてしまうが、私には、自分の日記を開ける時が来たのだろう。そして、日記を閉じて、再度1ページ目から開けた。「なんじゃこりゃ、こりゃ面白くない」。初日はこれだけ。

朝食パン
昼飯 バター。ハニーレモン
夕食チキンセット $4.50セント
今日できるはずのカードが出来ていず。すごいアップ& ダウンのルートを通る。とりあえず初日55.4キロメートル

しかし、日記のページを進めるごとに、文章の量が増えていく。内容も面白くなってくる。それから、字も綺麗になっていく。自分の成長が見て取れる。イチローも「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道だと感じている」と言っている。彼の偉業に比べることは出来ないが、それが見て取れる。

この二枚の写真を比べれば、成長度もよくわかる。一枚目はシドニーを出発した日の僕で、二枚目は約半年後にナラボー平原を突っ切っている僕だ。半年で、にじみ出てくる物がここまで変わる。これが「コツコツの強さ」だ






「コツコツの強さ」が、オーストラリアを自転車で周って学んだことだ。毎日、100キロを自転車で走れば、7日で700キロ、3ヶ月で9000キロ走ることが出来る。だから、だれでもオーストラリアを自転車で周ること出来る。出来ないとしたら、途中で辞めてしまったからだ。オーストラリアに来る前は、全く英語が話せなかった。そのうち書くが、旅行を始めてすぐの事故がきっかけで、毎日テントの中で、ロウソクの明かりで英語を勉強することにした。今では、日本語より英語の方が問題なく話せるぐらいだ(笑)。その後も、この精神は継続された。

コツコツと夕食後に英語を独学して、NHKの英語ラジオ講座を聞きながらお風呂に入り、学費と生活費をためて、ニュージーランドの大学に行った。それからも毎日勉強を続けて、3年半で経済学、統計、生物学を取った。その甲斐があって、オックスフォード大学から奨学金をもらって、修士と博士を取った。博士過程もコツコツと毎日研究し論文をかいた。1000日で博士号を取得すると決めて、999日目に最終弁論を行った。最近は、毎朝4時半に起きて、朝食前にサーフィンに行くことにしている。毎日続けることが大事。毎日続けると、どこかに行ける。毎日続けると、習慣になって努力する必要がなくなる。




オーストラリアを自転車で周った時に話を戻すと、毎日の生活はロボットの様だった。日の出前の朝4時には起きて、昨晩自炊した残りを朝食として食べる。テントをたたんで、日が昇ると共に自転車をこぎ始める。昼は半斤のパンを食べる。一日大体100キロから120キロを走る。結果がどうであれ、午後4時には走るのをやめて、車のヘットライトから見つからない様な道脇の藪(ブッシュ)に入っていく。テントを立てて、自炊をする。大体はピラフの様なものかパスタだった。ご飯が炊けるまでの間に、自転車、テント、服の修理をする。大体、毎日何かどこかの修理が必要だった。夕食は何でも、「美味しい、美味しい」と独り言を言って食べた。至福の時間だ。お風呂は入れないので、ベビーパウダーを全身にふりかけるか、トイレットペーパーで汗を軽く拭き取る。アウトバックは昼は気温が高いが、砂漠なので夜の気温は下がる。全て終わって、疲れきって、テントに入り寝袋に潜りこむ。親に送ってもらった高校の「英語構文II」を勉強する。ロウソクでテントに穴を開けたこともあるが、毎日勉強は続けた。そして、倒れるように僕の世界が終わる。そして、翌日、日の出前の朝4時から、新しい世界が始まり、僕はロボットの様に前日と同じ事を繰り返す。



これを、8ヶ月続ければ誰でも、オーストラリアを自転車で一周することが出来る。インターネットも携帯電話もなかった時代なので、この道の先に何があるのかわからない。どうなっているか心配だったが、僕も自転車で一周することができた。


今新しいことに挑戦してみようと思っているので、自分の原点に戻るのも良いと思う。この先どうなるかわからない。今一度がむしゃらに、そしてコツコツと人生を進めていく必要があると思う。その為には、20年前の「近藤マッチより熱い男と言われていた」無垢な若造に向き合うのは悪く無い。8ヶ月の日記をアップして行くので時間がかかると思うので、お付き合いいただけますと幸いです。

最後に、これは個人的な本プロジェクトのドラフトなので、校正してくれる人がいません。もし、ブログを読んで、日本語の訂正か、文章を改善をご指摘していただけますと大変助かります。ご連絡は、ブログのコメントもしくはツイッターでよろしくお願い致します。https://twitter.com/TakeshiTakama


よろしくお願い致します。
2013年11月27
高間 剛 バリ島にて

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