2013年12月6日金曜日

[J:4] 1993年4月2日~5日: 旅の始まりと、赤い自転車とのお別れ。~いきなりクライマックス~

English version is here!(英語版はこちら)
http://cycle93oz-en.takeshitakama.com/2013/12/e4-1993-april-2-4-beginning-of-journey.html


僕はシドニーの町を右に左に歩いた。20歳の僕は日本から出発する前は、シドニーから早く出発をしたいだろうと思っていた。しかし、初めての海外なので、色々な物を見たくなってしまった。ガイドブックは持ってこなかったので、拙い英語で観光ポイントを教えてもらいとにかく歩いた。キャンピング用品店と自転車のお店だけは、それでもチェックしておいた。

それから、親との約束の一つであった、「シドニーに住む父親の友人」に連絡して、銀行口座を開ける手続きをしてもらった。飛行機を洗って貯めたお金のいくらかはトラベラーズ・チェックと現金でもってきて、残りはシティバンクの口座入れて、オーストラリアから引き下ろせるようにしておいた。これは、飛行機を洗いに来ていた大学生から教えてもらった当時の海外旅行術だ。父のご友人にお礼を言ったら、それ以上シドニーに居る必要はなかった。だから、4月2日にシドニーのハーバーブリッジを渡って、オーストラリア一周を開始した。




一番最初のエピソードの一番最初に載せた写真は、この時ハーバーブリッジ上で取った。ファッションとポーズが光GENJIを思い起こさせる。そして、この写真が、この真っ赤な国産自転車の最初で最後の写真となった。



20歳の僕に、少しバトンタッチする。最初に書いた様に、旅の初めは、書いている分量も少なく、内容も貧素だ。



1993年4月2日 Avalon YWCA

朝食 パン
昼飯 バター。ハニーレモン
夕食 チキンセット $4.50セント

今日できるはずのカードが出来ていず。すごいアップ& ダウンのルートを通る。とりあえず初日55.4キロメートル



 1993年4月3日 Wyong キャラバンパーク

朝 バターライス
昼 パンとオレンジ
夕食 ソーセージの缶詰 $2.30セント ライス、オレンジ

Palm beach to patong フェリー$5

今日もアップダウンの連続。highwayのペットショップで日本に行きたがってる少年に合う
ODO 118,6 km
DST 63,2 km



1993年4月4日 ニューキャッスル バックパッカーズ 12ドル

朝 バターライス
昼 オレンジ、トマト 1.7ドル
夕食 チキンライス $2.3

このバックパッカーズが美しいところだが、生意気なオージーがいた。 17歳。

ODO 204.4キロメートル
DST 85.8キロメートル



4月2日にシドニーを出発した。進んでいる距離も、日記の分量も少ないが、確実に進んでいるようだ。しかし、20歳の僕は、4月5日にシドニーに戻ることになる。自転車はない。右手は石膏で固まっている。ハリウッド映画は、開始10分でクライマックスを起こすのが定石です。この自転車旅行が映画なら、開始一分でクライマックスになった。


20歳の僕は事の経緯を書いていなかったので、40歳の私が代弁する。シドニーから出発した僕は、最初は大きい道路をさけて、海沿いの道を走っていたが、シドニー周辺は入り組んだ湾で出来ており、右に左に上に下に走り、自分がどこに居るのかわからなる、最後には道が途中で無くなってしまうことがあった。インターネットの地図アプリも無い時代の英語も離せない僕には、突っ走る気持ちは充分あるので、方向だけはしっかりしておきたかった。だから、結局、大きい道に移動してを走ることにした。

4月5日も天気は良かったと思う。大きな道を快走していた。ニューキャッスルから、40キロぐらい北に走った所で、本線に入ってくる道がある。高速道路の合流の様なところだ。そのために、その入ってくる道をまたいで、新たな路肩に入ることにした。しかし、気づいたら二両編成の大きなトラックが僕のすぐ後ろに来ていた。小ぶりのロード・トレインだと思う。

今思い出しても身震いがする記憶だ。馬鹿でかいトラックが真後ろにあり、そのまま後ろから追突される。僕は左側に倒される。何が起こったかよくわからなかったが、僕は真っ赤な自転車にしがみついていた。そしてそのまま幾らかの距離を引きずられた。巨大なトラックは簡単には止まることが出来ない。車輪も大きく、車体の下は僕と自転車を飲み込めるぐらいの大きな口があいていた。幸運にも、前後4つの大きなサイドバックが僕と道路間のクッションになってくれた。また分厚いサイドバックのお陰で、トラックの下に完全に引きずり込まれる事もなかった。20歳の僕は、後日こう書いている。

「引きずられている時間が長く、その間に死を感じた。 」

僕は何とか、半分飲み込まれそうになった自転車から引き出される。少し離れて道路に出てくる。座り込んで、ぼーっとしていた。サイドバックのクッションはあったが、引きずられたので血まみれだ。特に背中はかなり血まみれだ。左の腰の傷は深く、20年後の40歳の私の腰にもケロイド状になって残っている。僕のヘルメットは割れていた。オーストラリアでは、当時から自転車に乗るにはヘルメットをかぶる義務があった。なので、シドニーで見つけた自転車屋さんでヘルメット買っておいて正解だった。ヘルメットがなかったら、私は父親より20年早く向こうの世界に行っていたことだろう。僕の自転車はフレームもホイールも折れ曲がっていた。もうおしまいだ。国産の赤い自転車は、僕には高い買い物だった。それが、3日目でおさらばだ。町の自転車屋さんと選んだ真っ赤な自転車だが、オーストラリアには縁がなかった。

僕は、ぼーっとしていた。運転手は警察官と何か話している。怒っているようだ。救急車がきて、血まみれのまま、小さい病院に運ばれる。救急車に乗っている時も、自転車と荷物がどこにあるのか気にしていた。そして、20歳の僕は、日記に「救急車中から外を見ている時、来た道を戻るのは嫌だと思った。」と書いた。当時は、この旅行が人生より大事、もしくは人生そのものだったので、そう思うことも当然だ。

病院についたが、先生が英語で何を言っているのかわからない。長いこと待たされて、日本語がわかる黄さんがやってきて通訳をしてくれた。「どこが痛い?」、「ここが痛い」背中が血まみれの僕は、こんな事を幾度と無く聞かれて、レントゲン写真を取られる。右の手首は痛かったので、大きな石膏を付けられた。

黄さんは「あの医者は、君の右手が折れているかわからないけど、取り敢えず石膏でとめてみようと言っているよ」と裏情報をくれた。左に倒れて、取り敢えず付けられた右腕の石膏。もう何でもありだ。

僕には帰る所がない。ここは異国だ。それでも、シドニーに帰ったほうがいいだろうと言われて、必要最低限の荷物を持って、シドニー行きの電車に乗った。全身血まみれ、傷まみれで、右腕は石膏で動かない。黄さんが電車に乗るまで見送ってくれた。

電車は何度も停車しながら、ゆっくりとシドニーに向かって進んでいく。肉体も心も疲れきっている。翌日の日記はこう終わっている。

「今自転車を見るのも嫌だ。」

2 件のコメント:

  1. 聞いたのと読んだのとでは、痛々しさの度合いが違いますね。
    気づいた訂正箇所です。
    >最後には道が途中で無くなったりいまうことがありました。→無くなったりしまうことがありました。、>小ぶりにロード・トレインだと思います→小ぶりの、>今、思い出した出しても身震いが→今思い出しても、>君の右手が折れているか、わからないけど→君の右手が折れているかわからないけど、>シドニーに帰ったほうがいいだろうを言われて→シドニーに帰ったほうがいいだろうと言われて、

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    返信
    1. いつもありがとうございます。痛さは思えてはいませんが、恐怖は覚えています。また、よろしくお願い致します。

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