2013年12月12日木曜日

[J:7] 1993年4月18日~21日 自分探しプロジェクトの終了の始まり ~再出発からの教訓~


English version is here!(英語版はこちら)
http://cycle93oz-en.takeshitakama.com/2013/12/e7-1993-april-18-to-21-beginning-of-end.html

特定の曲を聞くと、その曲がテーマソングになって聞いていた当時を思い出す。オーストラリアに来る前は、全く英語が話せなかったし、聞き取りも出来なかった。だから、洋楽をテーマソングにしていた時は、歌詞の内容が活動にそぐわない時が多々ある。例えば、POCOのCall It Loveを聞くと、当時、「やがて笛が鳴り、僕らの青春は終わる」という男臭い小説を読んで、走ってばかりいた高校二年生の冬の水泳部を思い出す。

ジョン・レノンのJust Like Starting Overを聞くと、シドニーからの再出発の頃を思い出すので、その頃、この曲をテーマソングにしていたに違いない。自転車に乗っていた時は、概してくだらない事を考えていたものだ。私は論理的で数学的な人間だと思うが、重要な事は、イメージや音で死ぬまで覚えている。今朝歯を磨いたかどうかを思い出せなくても、当時の写真を見たり、音楽を聞くと、昔の事が際限なく思い出される。大学に入って、これが試験勉強に使えることがわかり、急速に成績が伸びた。この勉強方法はまた、別の機会に話すことにして、20年前のオーストラリアの東海岸に話を戻す。



シドニーからレイモンドテラスまでは、最悪の思い出しか無い。私は田舎育ちだからか、大都市に居ることを好まない。ロンドンや東京に来るのは田舎者としてワクワクするが、それより、中都市のストックホルムの方が格段に僕の好みに合うし、オックスフォードや今住んでいるバリ島郊外、奥さんの実家の壱岐ぐらいまでが僕のコンフォートゾーンに収まっている。特に、自転車でシドニー等の大都市から出たり入ったりするのは最悪だ。自転車でシドニーを出るには、1)信号と交通に邪魔された一般道をブレーキをすり減らしながら進む、2)高速道路の路肩を冷や汗を搔きながら突っ走る、3)電車に乗ってさっさと嫌なものは飛ばす、しかない。既に1)は前回に経験していて、非常に不快だった。2)はロードトレインの事故からわかるように、安全ではない。特にトラックを見るとトラウマ化した恐怖が蘇ってくるので、僕の選択肢にはなかった。さらに、そのトラウマ化した嫌な思い出を思い出しながら3日走ることは考えられなかったので、既に日本から持ってきた壊れた自転車で走ったことがあるニューキャッスルまで、新しい自転車を電車に積んで、そこからStarting Overする事にした。

その日の内に、何とかレイモンドテラスを超えることが出来た。事故現場は絶対にその日の内に超えたかった。ネジが取れた荷台の修理にも時間を取られて、Fire placeと呼ばれる道端のちょっとした空き地で力尽きる。これが、今後オーストラリアでの旅の主流になる野宿の最初である。背中の傷はまだ癒えていなかったし、2週間近くシドニーで体たらくな生活が初日の低迷した進展の理由だろう。2日目と3日目は、さらに悪かった。2日目は初パンクを経験してそれに手間取ったが、無理して100キロは走った。20歳の僕が書いているように、するべきことは出来ずにそのまま寝ることになる。3日目は、事故による旅の遅れを取り返そうしてか、その頃の限界を超えて120キロ以上走っている。確か、充分に水を持っておらず、脱水症状がでてふらふらになっている所でパトカーがやってきて、警察に職務質問をされる。僕は、自転車をこぎ続けられる状況ではなかった。その場で野宿しても良かったが、水がない。次の街までどのぐらいかと聞いたら14キロあるといわれた。

警察官は、次の街まで送って行くと行って譲らない。僕もふらふらになりながら、たどたどしい英語で、「大丈夫、自分で行きます」とパトカーに乗ることを拒んだ。しかし、結局パトカーに乗って、14キロ先のKempseyに行くことにした。早速、完全な自転車でのオーストラリア一周にはならなくなったが、それは良かったと思う。20歳の僕もこう書いている

「これで完全な自転車で一周でなくなったが、もっともっと大事なものを見つけた気がする。」

このことについて40歳の私が、後付かも知れないが代弁してみる。あのロードトレイン事故の件で、死があることを確信したからだろう。ある程度安全策を取る事を考えるようになった。これは、今後砂漠を越えるのにも、人生を楽しむにも有益な戦略になった。そして、あの事故とこのパトカーに乗った経験が、「自分の企画をどれだけ妥協せずに実現させるか」の自分探しプロジェクトの終了の始まりだと思う。

かなり後に読んだスタンフォード大学のKrumboltz氏が書いた「Luck is no accident(幸運は事故ではない)」をいう本を読んだが、その中で、「自分の枠にしがみつかず、フレキシブルにチャンスがあったら、それに飛びつけ」とのありがたいお言葉がある。あの事故の前までの僕は、「アメリカに負ける可能性を冷静に計算せずに撤退を考えない」第二次大戦の日本軍の指揮官だった。原子爆弾も、一般市民への大空襲を肯定する気はさらさら無いが、もしあのような出来事がなければ、日本人は本当に一億玉砕に突き進んでいたかもしれない。

僕にとっては、あのトラックに轢かれた事故が、僕を玉砕の道から救ってくれたと思う。生き残るチャンスがあったら、フレキシブルにチャンスを捕まえる。コツコツと続けることも大事だが、生き残る、人生を楽しく生きるには、このチャンスを捕まえる視野も大事だ。何かを成し遂げるには、信じた道をとことん突き進む必要がある。しかし、視野だけは広く持ちたい。私にとって、「コツコツ続ける事」は絶対的な正義だが、「フレキシブルに生きること」が、正しい事なのか今の私にも結論は出ていないが、事実としてあの事故以来、僕はそう生きていると思う。実証経済学のように「~である」と結果を示しているだけで、規範経済学のように、「~であるべき」とは、僕には断言できない。

未成年者の僕が、オーストラリアの自転車旅行計画を親にプレゼンテーションした時には、父親に「お前は将来、戦場カメラマンにでもなるのか」と、最初は旅行計画を反対された。しかし、20歳の僕の将来はそうならなかった。視野を広げて、英語や学歴の必要性を知ってニュージーランドに行き、ケニア人の師匠の言葉に耳を傾けてオックスフォードに行き、日本からお誘いがあってインドネシアに来た。

高校時代に考えた「30歳までに、アフリカ大陸を縦断する」計画は実現しなかったが、今ではどうでもいい事だ。オーストラリアの後は、5年後はこうなると思った自分になったことがない。しかし、一日一生懸命コツコツ進んでいるだけだ。そして、自分の壁を作らず、チャンスがあればフレキシブルに生きるようにもしている。それが、今の「ゆるキャラ」の出現の元かも知れません。

奥さんに聞いたのですが、僕の親父は生前、彼女にこんな事を言ったそうだ。

「ああ見えても、たけしはうまく人生を器用に進んでいるからだいじょうぶ。」



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