2013年12月19日木曜日

[J:13] 1993年5月2日~7日 20歳の自由と40歳の自由 ~這いずりまわるか、禅か~


1993年の4月2日に最初の出発をしたので、その日から丁度一ヶ月経ったことになる。このあたりまで来ると、自転車で旅行するのにある程度適した道路事情になる。相変わらず、ロードトレインとそのミニチュア版が通るたびに冷や汗をかくが、大都市を離れて絶対的は交通量は減っている。しかし、旅行をしていると思われる人達は増えているように思えた。旅行の手段は、コーチ(長距離バス)、車、オートバイ、自転車がある。一番一般的な旅行は、グレイハウンドや、オージー・エクスピリエンスのコーチバスに乗って、町から町に移動するものだろう。奥さんも大学生の時に、シドニーからダーウィンまで、オージーエクスピリエンスで旅行している。話を聞いたら面白そうだったが、20歳の僕には、旅と言ったら、自分で行き先と寝る場所を、行き当たりばったりで決める事だったので、自分で運転できない公共交通機関での旅は興味がなかったし、軟弱だと思っていた。



自分で運転できる乗り物に乗って旅をすると自由だ。止まりたい所で止まれるし、テントを持っていると寝たい所で寝れる。旅先の変更も自由気ままだ。18歳でバイクの免許が取れるようになると、僕も免許を取って、真っ赤な中古のバイクを買って東京に来た。そして、日本を周る野宿の旅も始めた。「魔女の宅急便」で主人公のキキは魔法のほうきに少しの荷物を積んで親元を離れたが、魔法のほうきを中古のバイクに変えたら、僕も似たようなものだっただろう。原作の角野栄子氏の「魔女の宅急便」では、キキの誕生日が私と同じなので、キキには親近感を持っている。

不安はあったけど、4畳半1間で一人暮らしをするのも、テントで知らない所で野宿をするのも好きだった。僕は自由を何よりも好み、それを得るための不都合に対価を払うのは気にしなかった。オートバイや自転車で旅をすると雨が降ればぬれるが、それは自由に旅をする為の対価だ。それでも、その日の夕方にテントを開けたら、全てはびしょぬれで水臭くなっていることが予知できるから、雨の中びっしょり濡れたテントをたたむことほど、惨めになることは無かった。その対価で得た自由は最高だ。オートバイで旅をすると、自由のシンボルである風を感じる。そして、自転車で旅をすると、風景を感じる。無心で自転車を漕いでいる時も、熱風を感じたり、雨が降る寸前の、大気のよどみを感じることが出来る。そして、歩いているほど遅くも無いし、立ち止まることも出来ないので、景色は常に流れていき、一つの風景に心を奪われることも無い。僕はそれが好きだった。

オートバイで旅行していると、自転車の旅行は大変そうに思えるし、邪魔にも思える。自転車に乗っていると、オートバイや車は怖いし、僕が一日かけていくところを、一時間で行ってしまう彼らを妬んだりしていたかもしれない。妬むことは簡単だ。妬まないこともまた簡単。車で旅行している若者に、ぬかれざまに、からかわれた事は何度もある。怒鳴り返してやる事もできただろうが、その時には聞こえないところまで車は進んでいたし、自転車をこいでいた僕は空想ごとか、ペダルを回す事に集中していて忙しかった。自転車に乗っていたことは、何を考えていたのだろう。朝の出発の時は、今日の予定をあれこれ考えているが、その内、大体はくだらない事を考えている。上り坂や向かい風がきつかったり、疲れてくると、ペダルを1こぎ回すことに集中して自転車を前に進めることだけに集中しだす。Dhyna、禅の世界だ。一つのことに集中すると、世界から閉ざされて、妬みもなくなり、からかわれても、なんとも思わなくなる。これが本当の自由なんだと、10数年後にオックスフォード大学でチベット系のインド人の生徒を指導教官をした時に気づいたが、そんな事は20歳の僕はまだ知らない。

初めて自転車で長距離旅行をしている人にあったのは、1993年の5月2日でオーストラリア人のクリスとスイス人のアンナだった。20歳の僕には、歳の差が10歳のカップルは理解できていなかったと思われる。この後も、自転車でオーストラリアを旅行している人は何人か会っている。ほとんどは、オーストラリアの一区間の旅行だったが、一周している人もいたかもしれない。しかし、僕と同世代の人はいなかった。クリスとアンナを含めて、彼らは皆僕より一世代以上は年上で、必死感がでていなく、僕より気構えていないし、旅行を楽しんでいるようだった。小学生の1年生から見ると、6年生は大人で落ち着いているように見えるように、年上のお兄さんやお姉さんが大人に見えただけかもしれない。しかし、自転車旅行を始めて一ヶ月の頃の僕は、絶対値で測るとまだ楽しめるほどの余裕はなかった。

身体能力は人生のピークだが、精神はまだ不安定な20歳がやるような旅行ではなかったかもしれない。危機管理、社会コミニュケーション、金銭管理のどれにおいても、かなり背伸びした旅行だったが、20歳の時に行ってよかったと思う。人生には限りがある。もしかしたら、僕はあの事故が無くても20歳の時に死んでいたかもしれないし、少し長生きしても親父の様に60代で亡くなってしまうかもしれない。経験は積み重なり、自信になる。少し背伸びするぐらいの経験の方が成長できる。それなら、早く経験を積んだほうが、その経験を長く使えるから良い。それより、何より、僕は自由を求めていたので、自分のしたい事をさせてよかったと思う。

禅の自由が自分の内側のしがらみを取ることで得られるとしたら、20歳の僕が求めた自由は、しがらみや世間体の外側の壁を行動で越える事で得られると信じていた。40歳の私には、禅的な自由もいいけど、20歳の頃は、這いずりまわって社会に反抗しても、彼が信じる自由を得ようとしたことが必要だったと思う。そして、その自由を求める旅はまだ始まったばかりだ。


4 件のコメント:

  1. 素晴らしい話ですね。自由は内側のしがらみをとること・・・。自分は無意識に何を我慢しているのかなぁ・・。

    あ、るみさんの一言コメント、密かに楽しみにしています(・∀・)

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    1. 長島さん、コメントありがとうございます。無意識でも、意識的にもいろいろと、しがらみありますよね。「人に良く見られたい」とか、「馬鹿にされたくない」とか。。。こういうものを断つのが禅の目的で、断ち切ったら、自由になり、Steve Jobsがいうところの、「人のドグマ」に囚われなくなるのだと思います。偉そうな事、今書きましたよね。失礼します。

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    2. しがらみそれ自体のことを考えると、断ち切りたいです。でも、生活している中で、それら「良く見られたい」という気持ちが、自然に発生してしまうということは、そういう気持ちが起こることにも何らか人生のメリットがあるのかもしれませんね。禅か・・・。

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    3. 他人の目を気にした方が、がんばりが効くかもしれません。しかし、それがなくても、出来るようになると真の自由と心のハピネスがやってくるのだと思います。禅ですね・・・。

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